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「今宵も明け行く」の「も」ですが、昨夜を意識しての「も」なのでしょうか、それとも、こういうことが以前に何度もあったという「も」なのでしょうか。. 立ち返り、今さらに若々しき御文書きなども、似げなきこと、と思せども、なほかく昔よりもて離れぬ御けしきながら、口惜しくて過ぎぬるを思ひつつ、えやむまじくて思さるれば、さらがへりて、まめやかに聞こえたまふ。. 御応へ聞こゆと思すに、襲はるる心地して、女君の、.

「あな、憎。かかること口馴れたまひにけりな。みるめに飽くは、まさなきことぞよ」. 「けざやかなりし御もてなしに、人悪ろき心地しはべりて、うしろでもいとどいかが御覧じけむと、ねたく。. 「うちうちのありさまは知りたまはず、さも思さむはことわりなれど、 心うつくしく、例の人のやうに怨みのたまはば、我もうらなくうち語りて、慰めきこえてむものを、思はずにのみとりないたまふ心づきなさに、さもあるまじきすさびごとも出で来るぞかし。人の御ありさまの、かたほに、そのことの飽かぬとおぼゆる疵もなし。人よりさきに見たてまつりそめてしかば、あはれにやむごとなく思ひきこゆる心をも、知りたまはぬほどこそあらめ、つひには思し直されなむ」と、「おだしく軽々しからぬ御心のほども、おのづから」と、頼まるる方はことなりけり。. とお思い続けて、臥せっていらっしゃる。. もとの殿には、あからさまに渡り給〔たま〕ふ折々あれど、いたう忍び給へば、大将殿、え知り給はず。たはやすく御心にまかせてまうで給ふべき御すみかにはたあらねば、おぼつかなくて月日も隔たりぬるに、院〔ゐん〕の上〔うへ〕、おどろおどろしき御悩みにはあらで、例〔れい〕ならず、時々悩ませ給へば、いとど御心の暇〔いとま〕なけれど、「つらき者に思ひ果て給ひなむも、いとほしく、人聞き情けなくや」と思〔おぼ〕し起して、野宮〔ののみや〕にまうで給ふ。. 22歳 葵の上、結婚十年目にして懐妊、夕霧を出産。六条御息所の生霊のために死去。(「葵」). 雪のいたう降り積もりたる上に、今も散りつつ、松と竹とのけぢめをかしう見ゆる夕暮に、人の御容貌も光まさりて見ゆ。. 校訂4 書き紛らはし--かき(き/+まき)らはし(戻)|. 大将〔:源氏の君〕にも、朝廷にお仕え申し上げなさるはずの時のお心構え、この東宮のお世話をなさらなければならないことを、繰り返しお話しになる。. 『源氏物語』の主役である光源氏は、嵯峨源氏の正一位河原左大臣・源融(みなもとのとおる)をモデルにしたとする説が有力であり、紫式部が書いた虚構(フィクション)の長編恋愛小説ですが、その内容には一条天皇の時代の宮廷事情が改変されて反映されている可能性が指摘されます。紫式部は一条天皇の皇后である中宮彰子(藤原道長の長女)に女房兼家庭教師として仕えたこと、『枕草子』の作者である清少納言と不仲であったらしいことが伝えられています。『源氏物語』の"藤壺の宮、悩み給ふことありて、まかで給へり。上の、おぼつかながり~"を、このページで解説しています。. 心にまかせて見奉〔たてまつ〕りつべく、人も慕ひざまに思〔おぼ〕したりつる年月は、のどかなりつる御心おごりに、さしも思されざりき。また、心にうちに、いかにぞや、疵〔きず〕ありて思ひ聞こえ給〔たま〕ひにし後〔のち〕、はた、あはれもさめつつ、かく御仲も隔たりぬるを、めづらしき御対面の昔おぼえたるに、あはれと思し乱るること限りなし。来〔き〕し方行く先、思し続けられて、心弱く泣き給ひぬ。. 「薄二藍なる帯」は、青みがかった紫色で、多く夏に用いられる。この帯が直衣用で、男物であることは歴然としていると、注釈があります。「まつはれて」の「まつはれ」は下二段動詞です。「手習」は、ここでは、つのる思いを気持ちの赴くままに和歌として書きつづることです。源氏の君が昨夜から古歌をいろいろと書いていたのでしょう。. 源氏物語 藤壺の入内 現代語訳 げに. 「わたしも一日会わないとつらいのだが、まだ幼いので安心していますが、行かないとひがんで恨みに思う人もいるので、面倒ではあるが、こうしてしばしば出かけるのです。大人になったと思ったら、余所へは行かないよ。人の恨みをかわないようにと思うのも、世に長生きして、お前を思う存分見ていたいからだよ」. 「すぐ文を送るよ。気にかけているから」.

「五壇の御修法」というのは、不動明王・降三世〔ごうざんぜ〕明王・大威徳明王・軍荼利〔ぐんだり〕夜叉王・金剛夜叉王の五大尊を安置する台を作って行う祈祷で、天皇や国家に重大なことがあった時に行うのだそうです。この期間中は、天皇は謹慎しなければいけなくて、朧月夜の君はひまになります。. 髪ざし、面様の、恋ひきこゆる人の面影にふとおぼえて、めでたければ、いささか分くる御心もとり重ねつべし。. とばかりにて、うち背きて臥したまへるは、見捨てて出でたまふ道、もの憂けれど、宮に御消息聞こえたまひてければ、出でたまひぬ。. 「似つかはしからぬ扇のさまかな」と見たまひて、わが持たまへるに、さしかへて見たまへば、赤き紙の、うつるばかり色深きに、木高き森の画を塗り隠したり。片つ方に、手はいとさだ過ぎたれど、よしなからず、「森の下草老いぬれば」など書きすさびたるを、「ことしもあれ、うたての心ばへや」と笑まれながら、. 普段よりは、くつろぎなさっている源氏の君の顔の色つやは、たとえるものがなく見える。薄物の直衣、単衣をお召しになっているので、透けていらっしゃる肌の感じは、ましてとてもすばらしく見えるので、年老いた博士どもなどは、遠くから見申し上げて、涙を落としながら座っている。「逢っただろうのになあ、小百合の花の」と謡う終わりのところで、三位の中将が、盃を源氏の君に差し上げなさる。. 【紅葉賀 09】皇子ご誕生 源氏と藤壺の苦悩. 源氏の君は二条院のお屋敷にお帰りになられて、泣きながら寝てお暮らしになった。お手紙なども、例によって、御覧にならないというばかりなので、いつものことながらも、ひどくつらい様子のように思われて、内裏にも参内せず、二~三日閉じ籠もっていらっしゃるので、また、「どうしたのだろうか。」と、帝がご心配して下さっているらしいのも、恐ろしいばかりのことに思われるのである。. 藤壺の宮が亡くなるのは○○の巻である. 「心まどひして」には、感情に溺れて自制心を失っていると、注釈があります。源氏の君はどうにも止まらなくなっているようです。困った人ですねぇ。. 月のすむ雲居〔くもゐ〕をかけて慕ふとも. 74||「かかりけることもありける世を、うらなくて過ぐしけるよ」||「このようなこともある夫婦仲だったのに、安心しきって過ごしてきたことだわ」|.

「『東宮を今の皇子にして』など、桐壺帝が遺言なさったので、特別に気をつけているけれども、とりわけ特別に扱っているふうにもどういうことをと思って。東宮は年齢のほどよりも、筆跡などは特にすばらしくいらっしゃるに違いない。どういうことについても、ぱっとしない私の名誉として」と朱雀帝がおっしゃるので、「だいたい、なさることなど、とても賢明で大人びた様子でいらっしゃるけれども、まだ、とても未熟で」など、その御様子も申し上げなさって、源氏の君が退出なさると、. とのたまふ声、けはひ、その人にもあらず変りためへり。いとあやしと思しめぐらすに、ただかの御息所なりけり。. とお思いになると、その何となくしみじみとした君のご様子を、心のときめくことかと誤解してはしゃぐ。. 宮には、北面の人しげき方なる御門は、入りたまはむも軽々しければ、西なるがことことしきを、人入れさせたまひて、宮の御方に御消息あれば、「今日しも渡りたまはじ」と思しけるを、驚きて開けさせたまふ。.

などと、源氏はそっけなく言って退出した。命婦も、これといった手立てもなく、藤壺の気色も以前よりはずいぶん沈みがちに思われて、くつろげていない様子が、お気の毒に思いながらも、とりたててこともなく過ぎていった。「はかない契りだ」と思い乱れる二人であった。. 前斎院の御心ばへは、またさまことにぞ見ゆる。. 「今年よりだに、すこし世づきて改めたまふ御心見えば、いかにうれしからむ」. 逢うことの難しさが今日で終わりでないならば. 夜が明けると知らせる声を聞くにつけても。. 東宮の御使も参れり。のたまひしさま、思ひ出〔い〕で聞こえさせ給ふにぞ、御心強さも堪〔た〕へがたくて、御返りも聞こえさせやらせ給はねば、大将ぞ、言〔こと〕加はへ聞こえ給ひける。.

89||やや久しう、ひこしらひ開けて、入りたまふ。||. 「真剣になって思いつめていらっしゃるらしいことを、素知らぬ顔で冗談のように言いくるめなさったのだわと、同じ皇族の血筋でいらっしゃるが、声望も格別で、昔から重々しい方として聞こえていらっしゃった方なので、お心などが移ってしまったら、みっともないことになるわ。. 二人の会話と贈答歌が、恋の歌を引歌にしています。自分の思いを直接言葉にすることはせずに、引歌によって深い思いを表現していることが分かります。源氏の君と御息所は、こみ上げてくる思いに浸っているのでしょう。. 六十巻といふ書〔ふみ〕、読み給〔たま〕ひ、おぼつかなきところどころ解かせなどしておはしますを、「山寺には、いみじき光行なひ出〔い〕だし奉〔たてまつ〕れり」と、「仏の御面目〔めんぼく〕あり」と、あやしの法師ばらまでよろこびあへり。. 大将は、御ありさまゆかしうて、内裏〔うち〕にも参らまほしく思〔おぼ〕せど、うち捨てられて見送らむも、人悪〔ひとわ〕ろき心地し給へば、思しとまりて、つれづれに眺めゐ給へり。宮の御返りのおとなおとなしきを、ほほ笑〔ゑ〕みて見ゐ給へり。「御年のほどよりは、をかしうもおはすべきかな」と、ただならず。. 朱雀院への御幸は、神無月の十日すぎである。普通と違って、面白い趣向をこらしていたので、宮中に仕えていて見られぬ人たちは口惜しがった。帝も、藤壺が見られないのを、とても残念に思ったので、予行練習を御前で行わさせた。. 月さし出でて、薄らかに積もれる雪の光りあひて、なかなかいとおもしろき夜のさまなり。. 人の御ほど、書きざまなどに繕はれつつ、その折は罪なきことも、つきづきしくまねびなすには、ほほゆがむこともあめればこそ、さかしらに書き紛らはしつつ、おぼつかなきことも多かりけり。.

頭中将は、この君のいたうまめだち過ぐして、常にもどきたまふがねたきを、つれなくてうちうち忍びたまふかたがた多かめるを、「いかで見あらはさむ」とのみ思ひわたるに、これを見つけたる心地、いとうれし。「かかる折に、すこし脅しきこえて、御心まどはして、懲りぬやと言はむ」と思ひて、たゆめきこゆ。. ほどなく明け行くにやとおぼゆるに、ただここにしも、「宿直〔とのゐ〕申し候〔さぶら〕ふ」と、声づくるなり。「また、このわたりに隠〔かく〕ろへたる近衛司〔このゑづかさ〕ぞあるべき。腹ぎたなきかたへの教へおこするぞかし」と、大将は聞き給〔たま〕ふ。をかしきものから、わづらはし。. 「さきほどの老いらくの懸想ぶりも、似つかわしくないものの例とか聞いた」とお思い出されなさって、おかしくなった。. 「夕月夜」は、月の上旬の、月の出ている夕方です。物語では恋の訪問の場面で多用されると、注釈があります。. 「この君をも宮仕へにと心ざして侍りし」とある「宮仕へ」は、以下の弘徽殿の大后の言葉から判断すると、入内ということです。「をこがましかりしありさまなりし」は、入内の前に朧月夜の君が源氏の君とできてしまったことを指しています。弘徽殿の大后は「をこがまし」く思っていたのに、誰もそうは思っていなかったと、「誰も誰もあやしとやは思したりし」と反語表現で強く訴えています。「思し」があるので、右大臣をも意識しているでしょう。. 朱雀院の行幸は、神無月の十日あまりなり。世の常ならず、おもしろかるべきたびのことなりければ、. 思う給ふるに、飽かぬ心地し侍〔はべ〕るかな」とあり。. 「斎垣〔いがき〕」は、神社などの神聖な場所の垣を言います。「ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし今は我が身の惜しけくもなし(神の斎垣も越えてしまいそうだ。今となっては我が身が惜しいこともない)」(拾遺集)によっています。恋愛などはもってのほかの場所だということが、「おほかたのけはひわづらはしけれ」で示されています。. その昔のことを今日は口に出すまいと堪えるけれども、. 東の対に離れおはして、宣旨を迎へつつ語らひたまふ。. 9||「いともいともあさましく、いづ方につけても定めなき世を、同じさまにて見たまへ過ぐす命長さの恨めしきこと多くはべれど、かくて、世に立ち返りたまへる御よろこびになむ、ありし年ごろを見たてまつりさしてましかば、口惜しからましとおぼえはべり」||「とてもとても驚くほどの、どれをとってみても定めない世の中を、同じような状態で過ごしてまいりました寿命の長いことの恨めしく思われることが多くございますが、こうして政界にご復帰なさったお喜びを、あの時代を拝見したままで死んでしまったら、どんなにか残念であったであろうかと思われます」|. 東宮は東宮のこと。御殿が内裏の東にあったので「東宮」、また、五行説(ごぎょうせつ)では東は春の季節に当るので「東宮」とも書くということです。東宮はこの時、五歳です。これは数え年ですから、実際は四歳八ヶ月くらいです。たしかに、「何心もなくうれしと思し」とあるとおり、大人の世界のむずかしいことは分かりません。桐壺院はあれこれ言い聞かせたようですが、「うしろめたく悲しと見奉らせ給ふ」とあるとおり、気掛かりです。. 長年のご寵愛などは、わたしに立ち並ぶ者もなく、ずっと今まできたのに、今さら他人に負かされようとは……」.